青いシャツの男

 洗って干してあったはずの薄いブルーのシャツがなくなった。日曜日の夜に気がついた。夜に探して、朝も探して、見つからないまま仕事に出かけた。昨日は風が強かった。月曜日の朝も風が残っていた。駅までの道程を歩きながら冷たい風に首をさらして透明な空を見上げたら、青いシャツが風を孕んで飛んでいく姿が重なった。おれは少し笑った。おれのシャツは手を振っていたのかな、と。

 金曜日の夜、サーモンピンクのボタンダウンを着ていたおれは、帰り道に妙なものを見た気がした。目の前を、薄いブルーのシャツを着た男が通り過ぎたような気がしたのだ。

 その姿が見えて消える一瞬の残像が、いまでもそこに静止しているような気がした。客観的には青っぽい影が目に映っただけのはずだが、おれはそれを薄いブルーのシャツを着た男と、ほとんど即座に名付けていた。

 その夜の眠れないベッドの中で、安カーテンを透かして天井をぼんやり照らす街灯のちらつく周期に同調するように寝返りをうちつづけ、青いシャツを思い返していた。ベランダに干したばかりのまだ濡れているシャツやタオルの重いはためきがまるで銅鑼のように響いていた。しわだらけに乾いたシャツがどこかを目指して何かを探してゆらゆらと飛んでゆく姿が、夜に見た青っぽい影が、記憶と記憶でないものとが同じ青色によみがえってきた。

 眠りの浅いままに朝となり、おれは飛んでいったシャツの代わりを買いに出かけた。あまり迷うこともなくストライプのシャツを一枚、買った。その何倍もの時間をかけて本屋をうろつき、結局何も買わずに喫茶店のカウンターに移動して、コーヒーを一杯注文した。コーヒーが運ばれてくるまでのぽっかりと空いた隙間は、来るべき満足への確かな期待に満たされつつ欠如しているその満足が明確に欠如しているという、不思議と落ち着く数分間だった。

 コーヒーを飲みながら煙草の煙が流れていくのを目で追ったその先に、青い影が映って消えた。おれは店を飛び出し、影を追いかけた。商店街を抜け、住宅地の碁盤目になっている区画を何度も曲がり、公園を通り抜け、川沿いを歩き、橋を渡って川沿いを戻り、国道をまたいで見知らぬ倉庫街を歩いた。

 青いシャツは、あれはおれのシャツだ。そでのボタンひとつ、ほかのが白い糸なのにそれだけつけなおしたときに白糸がなくて黒い糸で縫いつけたのが見える。

 風で飛んでいった青いシャツ。おれの代わりを見つけたか。

 どんな奴か、影になった後ろ姿では判然としない。男はわずかに振り返り、かすかにうなづいたように見えた。その横顔がおれだった。それを合図に、おれとおれはいつもの帰り道にいた。

 前を歩くおれは、後ろを歩くおれのいつもの帰り道を、いつものおれのように歩いている。そう、その角を抜けると空き地が開けて鉄塔を仰ぎ見てしまうだろう。反対側の民家のかげに猫を探せ。おれよりも数メートル早く、その男はおれの癖を先取りしていく。おれはその男から目が離せなくて、歩道にしなだれかかった木の枝に指を差し伸べて触らないでいたりとか、左手の路地が下っていく坂道の突きあたりの踏切が降りているかを確かめたりとか、なんにもできなくて、全部を青いシャツの男がやっているのをただ見守りながら、影のように後ろを歩き続けていた。

 あと少しでおれのアパートだ。そう、そこだ。左へ入れば階段がある。二階に上がれば少し軋むがおれのドアだ。鍵は持っているはずだ。

 軋む音がした。ドアが閉まって、鍵の掛かる音がした。

 

(完)

 

 

 

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    oretasakana (月曜日, 19 12月 2011 23:50)

    大好きだった青いシャツを捨てたことがあるだろうか。捨てようと想い決めてから、なんとなく目を逸らして数日過ごしてしまったことが、あるだろうか。

  • #2

    maru (金曜日, 23 12月 2011)

    一種のドッペルゲンガーを思わせられますね。
    梶井基次郎を思い出す。。。

    「そでのボタンひとつ、ほかのが白い糸なのにそれだけつけなおしたときに白糸がなくて黒い糸で縫いつけたのが見える。」

    ここが好きな箇所。

    少しSFのショートショートの感じもありますね。。。

↑↑↑参加自由 facebook page 「裏・折れた魚」はここから
↑↑↑参加自由 facebook page 「裏・折れた魚」はここから
↑↑↑著者夕日知己のTwitterアカウントはここから
↑↑↑著者夕日知己のTwitterアカウントはここから