「折れた魚」夕日知己の活動のお知らせ/活動レポート

二〇一五年七月二十二日展示

 二〇一五年七月二十日より、同年同月二十六日午後二時まで、東京世田谷区にある世田谷美術館区民スペースBにて、私自身も理事として関わっている美術団体JADIFが主催する、JADIF公募作品選抜展を開催している。

 この公募展は、モダンアートであるなら作品のジャンルは不問、作家の経歴不問、という特徴がある。いわば、アウトサイダーの避難所としてコンセプトを設計したのが、JADIFなのである。

 今回で三回目となる本展、とても面白い作品が集まった。

 もちろん、なかでも面白いのが、これである。私の作品である。

 というのは冗談だが、詩の実体化という新しい思想を実現した作品を、ついにひとつ完成させたのだ。

 この作品は、置かれる美術館の文脈からは「塑像」として把握される。しかし、そのタイトルは、七行の詩だ。タイトルは、作品展示の際に必ず表示されねばならない。而して、美術館サイドとしては常に詩も展示せざるを得ないことになる。これが、狙いである。

 ただ私はさらに、そのタイトルすら作品の一部として制作した。作家が「タイトルも自筆で書きました!」と言えば、美術館も置かざるをえまい。そう考えたのだ。

 つまり、この作品は詩と塑像が分かち難く対になった作品なのである。

 存在の順番としては、はじめに詩があった。私は詩人なのだ。

 そして、それから詩と等しい物体を作った。それがこの塑像だ。

 展示のために、詩は木炭紙と木炭で書いた。いや、描いた。言葉に光が当たって刻まれる影を描くように、描いた。

 詩を読み、塑像を見、詩と塑像を同時に感じることで詩の本体がより強く、豊かに伝わってほしいと願っている。

 最後に見つけた苦笑の種は、タイトルにタイトルをつける羽目に陥ったことである。つまり、塑像のタイトルが七行の詩です、と強弁したせいで、詩のタイトルはタイトルのタイトルになっちゃったのである。てんもうかいかいそにしてもらさず。

 

 

 

二〇一四年八月二十九日

2014 JADIF展

 

 二〇一四年八月二十六日から三十一日まで、世田谷美術館でJADIF展というモダンアートの展示会を開催している。私は主催団体JADIFの評議 員の一人であり、関係者であるため、準備活動や作品選考に加わっていた。とはいえ私は詩人であり、詩を書いているだけだ。だから、展示会そのものには参加 しないつもりでいた。

 ところが、ある応募作品の絵を観た瞬間、そうはいかなくなった。その絵がある以上、私もなにかを出さないといけない。そう感じたのだ。

 それから私は急いで詩を書いた。

 書き上がってから急いで展示方法を考えた。

 悩んだ末、こころみに、友人の書家に書いてもらうことにした。私はまだ書家ではないと、本人は謙遜するが、書を書いているなら書家だ。詩を書いているなら詩人であるのと同じだと私は解釈した。

 そして、完成した作品がこれである。

 展示会場では、書家の書(A全)の横に縦組明朝体のプリントアウト(A4)を並べている。このページでは、横組明朝体表示になるテキストも追加した。


 

 JADIF展は、絵だろうが彫刻だろうが写真だろうがなんだろうが、なんでもいいことになっている。今回の展覧会でも、油彩、アクリル画、立体造形、コンパネ油彩(ちょっとキュビズム風)、ある種のフィギュア、写真、さまざまな作品が並んでいる。

 そのなかに、詩が一編、立っている。普段は本の中で目を閉じているはずの詩編が、美術館の白い壁の前に立ち、目を見開いているようだ。

 さて、「絵を見に行こう」と思ってきたとして、そこに一編の詩があったとしよう。その詩は、詐欺師のように訪れた人の心を騙し、手品師のように目を眩まし、野良猫のように勝手に入り込んで心の片隅で丸くなって眠り始めるのだ。

 そんなことが起きたなら、どんなに素晴らしいことか。私は受付に座って白い壁を見つめながらそう思っていた。

 

 

 

 展覧会が終わった。

 いろいろな人が訪れ、いろいろな足音を響かせ、いろいろな思いを持ち帰っていった。

 芸術の歴史は人間の歴史とほぼ等しい長さを持つ。未来もまた同じ長さがあるだろう。途切れることのない芸術の流れのなかに垂らされた一滴のインクの如きJADIF展だったが、「それがない世界」よりも「それがある世界」のほうが美しいと思う。

  言葉を使う表現者としては、美術館という場所に「入りたいのに入れない」憧れを感じ、そこに飾られる美術作品を羨ましいと感じた。そこは大きな書物のよう だった。換言すれば、書物とはひとつの作品だけを展示している美術館のようなものなのだろう。書物を開く人はたった一人で美術館に立つ人なのである。

 詩を美術館に展示することが詩を伝える力を持つのかどうか、まだわからない。だが、これからもやってみようと思う。次は、どんなやりかたにしようか。


 写真は、最終日の終わり頃にいらした方の後ろ姿。「耐熱硝子の器ひとつ」を読んでいた。プリントアウトを読み、書を読み、眺めていらした。声を掛け、話を聞き、お礼を言いたかったのだができなかった。遅くなりましたが、ありがとうございました。


 このあと、我々は職人集団のように手際よくすべての作品を壁から降ろし、梱包し、運び出し、会場を片付け、立ち去ったのである。

 

 



2012年1月17日〜22日 展覧会 銀座 ギャラリー・ノア

 展覧会が終わりました。

「絵と一緒に詩を展示する」というのは、予想できない光景でした。

 でも、来場者の方々に読んでもらって、感じてもらって、とても幸せな一週間でした。

 

 

 

 詩の展示は、

 1 ちょっといい紙(木炭紙を選んだ)に

 2 硬筆という筆ペン(文房具屋さんで見つけた)で

 3 直筆(何度も失敗したし、やっぱり下手)し

 4 白のイラストボード(2ミリ厚)に貼りつけ

 5 リベットで壁に打つ

という方法をとりました。

 

 現物の写真を撮ってきたので、それと併せて載せることにします。

 

【作 品】

折れた魚

:これは特別な作品(黒のボードを使っているのはそのため)で、私が「詩を発表する」と決意したときに、友人阿部に「じゃあ今の気持ちを、今までのトモさんと未来のトモさんの姿を描いて詩に書いてくれ」と言われて書いた作品。この詩を読んで阿部が描いてくれた絵が、このサイトのシンボル画である。

 

画精と詩精の会話

:これも特別な詩編。画精とは阿部のこと、詩精は私。今回の展覧会へ向けて本格的に作業を始めた頃に、私たち二人の姿を書いて阿部に贈った作品です。龍(ドラゴン)は彼の絵の重要なモチーフになっていて、詩の最後には彼が龍に乗って舞いあがる。

 

龍の楽園に疑いの花は咲くか

:「ドラゴン」と題したシリーズ全体に対して書きたかった。絵を何枚も見渡して、そこに「なにか」がありそうだと思った。でも、はじめは山脈の真っ只中に飛び込んで「この山のどこかになにかがある」というくらいの感覚でしかなかった。

 

天地の門(あめつちのもん)

:「アルケミスト」というシリーズタイトルの絵に対する私の反撃、といってよい。絵と一緒にもらわれた幸せな作品である。

 

青の壁

:右上の写真に載っている「ワープホール」というシリーズのうち、「青・白・赤」のそれぞれに詩を書いてくれ、という阿部のリクエストがあった。「青」は一番先に書き上げた作品。

 

白く爆ぜた雲の真下で

:これが今回の展示作品の中でもほんとの最後に書いた作品。月曜日には搬入設置だというのに、土曜日の夜中にようやく書き上げた。「白」をテーマに書くというのも、困難だった。「雲」というモチーフは阿部のリクエストだった。この作品は、たった今、中学受験と闘っている少年のもとへ行った。詩の最後に出てくる「次の風」こそ、彼だと思う。

 

赤でも朱でも紅でも

:「赤」といっても、阿部の色彩感覚は色の名前の数を超えているので、タイトルのとおり、色の名が足りなかった。それが着想となったが、どこへ行き着くのかを見極めるのは困難だった。

 

喜びを待つ

:「エレガンテ」というシリーズのために書いた作品二つのうちの一つ。もうすぐ生まれてくる大切な子がいて、その子のために書いた。そして、作品はその子とその母に贈った。詩の中心にはある賛美歌のタイトルの一部が引用してある。「人の望みの喜びよ」と。

 

夢たちよ

:「エレガンテ」の二つめ。今回の展覧会でもっとも人気のあった作品。シンプルだが私の祈りそのものといっていい。「欲しい」と言ってくれた方がいて、嬉しかった。

 

四季に踊れ

:「四季」という四枚組の作品のまんなかに飾るべく、書いた作品。阿部の絵は四季と言っても、もちろん春夏秋冬の風物ではない。そういう絵を描く男ではない。なのでもちろん、私も春夏秋冬の風物詩を書くはずもなかった。四枚の絵を円形に配置したら、こういう詩が生まれた。

 

色とりどりの彩りの我らよ

:「サンキュー」というタイトルの絵に対する作品。この絵は、今回の作品の中でも重要なものだった。というのも、この絵が今回の展示作品全体のターニングポイントだったからだ。絵のテーマ、作風もここで鋭く転回したのだ。そして、とても幸せな絵だった。その幸福を私はありったけの大声で叫ぶように、書いた。

 

 

 

DAY3:豊かになる世界

 今日はたくさんのお客さんが来てくださいました。私は夜になって現れるだけなので、阿部が汗びっしょりになりながら、歓待していたようです。写真は受付から真っ直ぐ前をみたところ。右手に入り口があります。正面のテーブルには阿部がそろえたワインやサングリア。お客さんに振る舞っています。

 

 これまでの三日間で「いいね!」シール争奪戦は、絵の勝利が確実となりました。ふふふ、当たり前だ。でも、思い描いていたとおりの「絵を見に来たつもりが詩を読んでいる人」の姿を見ることができました。快感でした。

 書くことで白紙の世界が消失し、詩のある世界が出現する。そして、その「詩のある世界」を所与として受け止める人が現れる。それが、世界が豊かになることなのだと思いました。

 

 

 

 

 

DAY2「いいね! はシールがいいね」

 店じまいです。

 今日はお客さんが少なくて、残念でした。写真はギャラリー入り口を内側から見たところ。左手の作品は四枚組の「四季」というものです。まんなかに「四季に踊れ」という私の詩編が突き刺さっています。

 たいやきを差し入れに持参して、夕方に阿部と合流したのですが、展示がほんのわずかに変化していました。直感で生きている人間にためらいは無縁なのですね。「このほうがよさそう」と思うや否や、実行しているのです。

 

 ところで阿部の発案で、お客さんに「いいね!」シールをお配りしています。

 フェイスブックをやっていないのにそういうことには詳しい阿部が、どこで覚えたか「いいね!」を導入したのです。「絵と詩の横にシールを貼ってもらう」という「いいね!」。

 シール3つをお渡しすると、皆さんちょっと「お、やってやろうじゃないか」というお顔をされまして、がぜん面白くなります。もちろん、こっちは鵜の目鷹の目で「どれに貼るんだ???」と見ないふりして思いっきり監視しています。心の中で、「うお! そ、それなんだ!」「やった! 1いいねゲット!」とか、やっているわけです。

 いまのところ圧倒的に絵に持っていかれていますが、私の詩も少しは「いいね!をいただけました」(っていう表現をどっかのブログで見たことがありますが、ひどい言葉遣いで堪え難いです)。

 

 さて、明日はどんな方が来てくださるかしら?

 

 

 

 

DAY1 絵の方がしっかりと立っているくらいだ

 こんな感じで、展覧会は始まりました。この写真はギャラリーの入り口から正面に見える壁です。

 

 まだ初日なので、ここでぶったおれるわけにはまだいきません。これから土日のエンディングまで、しっかりと気を保って、ギャラリーの白い床に二本足で立ち続けたいと思います。

 

 それでも、「やりきった感覚」が確実にあり、明るくてもすこしばかり暗くても未来はあるのだと、自分の詩を信じられるようになりました。写真にも写っている、ちいさな白い紙に身を任せられる、そういう幸せです。

 

 このご案内をご覧になった方で、銀座が現実的行動半径にある方は、これもなにかの縁と思ってお立ち寄りください。お待ちしております。

 ひとりでも多くの方に読んでもらえることが唯一の望みです。読んでくれた人の心に生まれるかもしれない何かこそ、私が望んだ何かなのです。

 

 

 

 

 

DATE201201170122:「展覧会への道順 11」秒読み T−09h08m21s

 いよいよ、眠っておきれば展覧会のオープンです。

 さきほどまで、現地で設営を手伝っていました。きれいに並べました。

 

 あとは祈ります。

 願うばかりです。

 

 でも、とても幸せです。

 たとえば、「絵を見に来たつもりが詩を読んでいる人」が生まれるかもしれないのです。その人は、帰りに詩集を一冊、買って帰るかもしれないのです。

 僕の詩集はまだこの世にはないけれど、いつかその人が、いつかあるかもしれない僕の詩集を読んでくれるかもしれないのです。

 

 では、明日から銀座で、みなさまとお会いできるのを楽しみにしています。

 

 

 

DATE201201160221:「展覧会への道順 10」秒読み 33h24m15s

 終わりました。

 すべての作業が終わりました。

 明日、絵と一緒に会場へ搬入され、設置されます。

 いよいよ、いっておいでの時が来ます。

 

 ほんとうに幸せです。

 

 ひとりでも多くの方に読んでいただけますように。

 

 

 

DATE201201160002:「展覧会への道順 9」秒読みいよいよ あと1日

 日付が変わって、もう明日です。

 展覧会スタートは、もう明日です。

 

 作品は書きあがりました。展示用の紙に清書しました。手書きの文字は私は、大変下手くそです。それでも、ゆっくりと一文字ずつ時間をかけて筆を動かして、丁寧に書きました。みなさまに読んでいただきたくて。

 代償として、首と肩の筋肉が氷のようです。ただでさえ、筋肉硬直に悩んでいるのに。

 

 平日夜間18時以降と土日終日、私本人が現場におりますので、お気軽にお立ち寄りください。その際は、お気軽に声をかけていただければ嬉しいです。

 

 さて、これから最後の作業を片付けます。

 どれをとっても失敗の許されない一発勝負の作業ばかりで、集中力が泣きそうになっていますが、あと少し、がんばります。

 

 

 

DATE20120113:「展覧会への道順 8」秒読み進んで あと5日

 うわあ。あと5日で打ち上げだ。

 本当にやるのです。展覧会を。

 嘘のようですが、真実です。

 このような機会を作ってくれた友人阿部に、感謝しています。

 

 展示作品は当初予定よりだいぶ数が少なくなり、11編となりました。でも、素数だからよいという独自の理由で納得しています。

 それで書けたのか?

 ほぼイエス。あと1編を残すのみとなりました。その1編も、かなりくっきりとした心象の粒が見えているので、もう大丈夫だと思います。

 そして展示方法も決まって使う紙も決めたので、あとは作業を間違いなくやるだけです。

 

 相棒は「ぎりぎりだね」といいながらも最後の作業を手伝ってくれます。優しいなあ、タカオちゃん。

 

 来週の火曜日から週末の日曜日まで、銀座ギャラリー・ノアにて、みなさまをお待ち申し上げております。私自身は、平日夜間および土曜と日曜の終日、現地におりますので、ぜひともお声を掛けてください。

 

 

 

 

DATE:20120108 「展覧会への道順 7」秒読み開始 あと9日

 展覧会まであと9日となりました。

 絵と詩の展示レイアウトも決まり、あとは発射台へ移動、燃料注入、システムチェック、点火! 「ヒューストン、こちらシャトル。オールクリア」……。

 と、なるはずなのですが、副操縦士の用意がまだです。

 

 でも、今日は朗報があります。

 詩の展示方式を決めました。厳密には紙の選択が残っていますが、おおむねこれで行こうという形が見えてやる気が出てきました。

 

 そもそも「詩の展示」なんて、よほどの大家でなければやりませんね。今回の企ては、画家阿部の文脈から当然のごとく生まれたものであって、詩人の文脈からは決して出てこないもの。そのため、「詩を展示するって、どういうこと?」という疑問との闘いが長く続きました。その疑いがつねにブレーキとなっていて、詩を書くスピードも鈍りがちでした。だって、隣の絵には(詩人にとってはまさかの、画家にとっては当然の)「お値段」がついていますのですよ。

 

 そのブレーキがようやく解放されました。このサイト「折れた魚」と等しく、みなさんに読んでもらえるのだという喜びを素直に感じられるようになりました。「展示された詩の姿」が見えてきて、嬉し恥ずかし安堵に不安、入り混じりつつも「いっておいで」と言える気がします。

 

 1月17日より22日まで、銀座へお遊びにいらしたときは、ぜひお立ち寄りください。画家阿部は常時、私は平日夜間(申し訳ありません)と最後の二日間(土日)の終日、現地でお待ちしております。

 

 さあ、書くぞ作るぞ。

 

 

 

DATE20111228:「展覧会への道順 6」

 前々回に、「俳句に夢中」と言いましたが、申し訳ありません、撤回します。

 「短歌に夢中」

 コメントをくださる方から塚本邦雄を教えていただき、さっそく古本屋へ走り一冊入手し、それ以来脳みそ内サーキットを塚本短歌が走り続けています。私は自分のバイクでそれを追いかけて、何度も抜かれて周回遅れ。でもアクセルをもっと開けたい。

 そんな感じになっています。

 ただ、短歌という形式は日本古来の詩の形式で、私ごときが三日で書けるようになるわけもなく、新しい太陽系を見つけて嬉しい! くらいの感覚で興奮しているとご理解ください。

 

 さて、本分である詩のほうですが、ここ一週間くらいで少し書き進み、どうすればよいか答え(の少なくとも方角)が見えてきました。当初は絵と詩を一対一の関係で捉えていたのですが、そうではないのです。一対多の関係があったのです。そうすることで、展示空間の立体化が果たせる。展示空間に網の目を織りなすことができる。

 

 種明かしはできないんだけどでも黙ってもいられない手品師の自己主張みたいに鬱陶しい語り口になってしまい、申し訳ありません。

 

 答えは会場にて、お確かめください。

 

 

 

DATE20111223:「展覧会への道順 5」

 ようやくひとつ動きだしました。案内状が完成です。30枚ほど渡され、捌けと。

 とりあえず、「夕日知己・詩・共同展示」の件を書き添えねばと思い、一枚ずつ手書きしています。慣れない紙質にてこずってます。

 この案内状は、都内のごく限られた場所にしか置けないと思うので、画像を載せます。

 肝心の詩のほうは、なんとまだこれからです。展示用の作品として「書く」行為もかなり大変そうです。

 でも、不思議なことに、できない気がしない。私はいつも不安で怯えて緊張して手のひらと足の裏をにじむ汗に濡らして暮らしているような生き物なのに、なぜかこの件に関してだけは、不安はないのです。当日の朝にはできていると、知っている感じ。

 この大風呂敷を私がいかにして畳むのか、ぜひ会場で見届けてください。

 

 

「Nirvanaへの入り口」洋画家・阿部高大
「Nirvanaへの入り口」洋画家・阿部高大

DATE20111209:「展覧会への道順 4」

 道順は、まっすぐではありませんでした。

 Twitterでも時折(まさに)つぶやいていたのですが、引っ越しと風邪と折れた魚と展覧会とが重なって、大変な日々を過ごしているところです。

 現状のどうでもいい細部は省いて要点だけ書きますと、手元に本がない状態です。読んでいると読んでいる暇はない書かないとと思う本ですが、いざ本当になにもない(すべて段ボール箱の中)となると言いようのない不安に駆られるのが本です。そのため、先日ついに一冊新規購入してしまいました。芭蕉の全句集を。

 どうなったかというと、俳句に夢中、です。

 

 ああ、展覧会まであと一月と少し。

 ああ、まだ10数編書かなければならないというのに。

 拙い俳句なんぞを発句している場合ではないというのに。

 

 芭蕉、すごい!

 

DATE20111203:「展覧会への道順 3」

 作風というものがあります。文章家であれば、文体とか。詩人であれば、詩風? 画家にもはっきりと作風がある。パートナー阿部の場合、それが際立って変化します。

 今回の展覧会では、おそらく、大きく分けて4種類の世界が広がります。そのうち最後の一つは、先日書いた「また描いちゃった」事件の夜に生まれています。

 すごいことです。

 折れた魚で私は、2003年から書き始めた詩を古いものから順に公開しているのですが、今書いているものとはっきり違うと改めて感じていて、自分の変化、言葉の変化を噛み締めていたところでした。

 ところが、阿部の絵の場合、それどころではない。極論すれば、明日何を描くのか、本人さえ予想がつかない、といった様子です。おもしろいし、すごいことだ。

 そこからスタートして、詩で追いかける遊びは、興奮します。

 

PS

私事ですが、引っ越しが無事終了しました。半分だけ。「書くことは伝えることの半分」と言いましたが、引っ越しも同じですね。移動は引っ越しの半分でした。これから、新居の整備をします。年内に終わるかしら?

 

 

 

DATE20111127:「展覧会への道順 2」

 昨日、出展作品が決まりましたとお伝えしたばかりですが、ひっくり返されました。あの画家に。あのばかに。

 ゆうべ遅くに連絡があり、「また描いちゃった」と。まだまだ出てきそうですが、しかたありません、つきあうほかない。

 詩は一瞬に属する、と谷川俊太郎氏は言っていました。そのとおりだと思います。たしかに一瞬に属するのです。ならば、一瞬で書けるかもしれない。見えず、触れられず、舐められず、聴こえない一瞬を、完璧につかまえられれば。ところが、それが難しいから時間がかかる。つかまえたと思っても、どこかつかまえ損なっている。こうじゃない、これでは違うと、自分によって書かれたものが自分のつかまえたかった一瞬を表すまで、暴れることになる。書かれたもの(文章)が詩になる瞬間は、まさに瞬間的な出来事です。無か全てか。中間のない瞬間的な出来事です。

 しかたがありません。たとい展覧会当日の朝に新しい絵が出てきたとしても、私はそれにつきあって、一瞬で一瞬を書くしかない。覚悟を決めました。(続く)

 

 

 

DATE:20111126:「展覧会への道順 1」

「展覧会の絵」が決まりました。つまり、出展作品が、です。

 まだ決まっていなかったのですね、全部は。

 今回の展覧会は、「阿部高大」の絵が主体で、私の詩はその鏡像です。ちょうど、「折れた魚」のタイトル画の逆です。

 すると、どうなるか。これからやっと詩を書ける(!)のです。適当に絵を選んで書いたものがすでにいくつかあったのですが、危うくその絵がボツになりかけ、焦りました。

 画家は仕事が終わったものだからへらへらして遊びにいこうと言います。詩人はふざけんな俺は今やっと火がついたんだと言って怒っています。(続く)

 

 

DATE:20111126

 阿部高大は「折れた魚」タイトル画(頁右側の絵)の作者でもあります。

「折れた魚」の構想を練っていたとき、阿部が絵を描くと言ってくれました。もともと頼むつもりだったのですが。

 ある夜、阿部が私に「トモさんの今までと、この折れた魚が実現した後の、両方の姿を描いた詩を書いてくれ」と言いました。そこで「折れた魚」と題する一編の詩を書き、彼に渡しました。その詩を読んで彼が描いたのがこの絵でした。

 これは、詩人夕日知己の肖像画です。

 

 

DATE:20111124

 現在、「折れた魚」のフライヤーを作成中です。

 完成したら、東京都内、神奈川県のいろんなところに置いてもらったり、勝手に置いてきたりする予定です。

 どうか、あなたの手にとっていただけますように....。

 

 

 2012年1月17日(火)〜22日(日)に、銀座ギャラリー・ノアにて、現代アート絵画の展覧会(洋画家:阿部高大)が行われます。(ギャラリー・ノア

 絵画とともに、「折れた魚 夕日知己」の詩作を共に展示することになりました。阿部高大の絵を出発点にした組作品としての詩です。

 絵画と詩編を一緒にお楽しみください。

 

 詳細が決まり次第、このページからお知らせします。

 皆様に、見て読んで楽しんでもらえる展覧会になりますように。

 

 

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