レースが始まる

 レーススタート二十分前。ピット内では時間が止まる瞬間がある。観客たちの興奮に誘われて舞い込んだ風すら息を飲んで立ち止まる。静止したチーム監督やメカニックたちの視線の先には一人のライダーがいる。レザースーツに身を包み、ヘルメットを頭蓋骨にぐぐぐと押しつけ、準備を整えていた。

 ライダーの心に火がついた瞬間、全員が同時に動きだす。なんの合図もなく、膝をついてフロントタイヤに手を置いていた者の、リアスタンドに手を掛けていた者の、エンジンスターターを持つ者の、コンピュータのキーに指を添えていた者の、止まっていた時間が動きだす。

 エンジンが始動して耳を聾する轟音を立てると一瞬の躊躇もなくライダーは飛び出してゆく。コースを一周して予選で勝ち取ったグリッドへ並ぶ。パラソルガールたちも並ぶ。エンジンの火が一度消えて、セレブリティがうれしそうに歩き回る。

 レーススタート五分前。セイフティカーが発進し、コースの安全を確認しながら一周を終えて最後尾につくころ、グリッドエリアから急に人がいなくなる。残っていた一人のメカニックがエンジンをスタートさせ、もう一人がスタンドを外してライダーに向かって何かを叫び、立ち去る。

 レーススタート二分前。全ライダーがそれぞれゆっくりとスタートし、ウォームアップラップへと向かう。一周の間にライダーはマシンの状態を確かめ、タイヤと路面の関係を確かめ、自分を確かめる。すべてのマシンがグリッドに戻った。あの赤い信号が消えたらレースが始まる。さあ始まる。

 

 

 

この作品は、詩作品ではない。ある風景(オートバイレースが始まるまでの二十分間)の描写だが、事実を伝えているわけでもない。しかし、何を見たのかをそのまま書き表すことも大切だと思うのである。

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