二〇一六年七月三十一日展示

 二〇一六年八月二日より、同年同月七日午後二時まで、東京世田谷区にある世田谷美術館B区画にて、私自身も理事として関わっている美術団体JADIFが主催する、JADIF公募作品選抜展を開催する。

 今回で四回目となる本展に、今年も出展することにした。

 昨年は「詩の実体化」の実験として詩の等価物たる塑像を制作して展示したが、今年は元へ戻って、言葉だけの展示とすることにした。

 言葉は文字でしかとどめおくことができない。文字を書き残すほかない。

 声は聞こえるが、聞いた者の記憶のなかにしか、残らない。もちろん、それこそが詩の言葉の実体なのであるが、切ない。

 今回の展示作品は、私の自筆である。自分で書いた。しかしそれは「文字を書く」「文章を書く」という行為とは程遠いものだった。

 筆と墨で和紙に書くのが本来の文字を書く行為であるとするなら、この作品ではアクリル絵の具とアクリル用絵筆を使って木炭紙に書いている。一言で言って、非常に書き難いのである。ただでさえ、字が下手くそであるのにだ。

 そこで私は、文字にすごくよく似た図形を、必死に、できるだけ丁寧に、描いた。

 絵筆を置いて見ていると。

 変な模様だけが浮かび上がるときがある。

 文字が読めて詩が伝わってくるときがある。

 色だけがぼんやりと伝わってくるときがある。

 完成したのだ。

 

 

 

 

二〇一五年三月二十二日展示

冬から春にかけて作った三つの作品について

からすねがいつ

私は鴉という黒くて嫌われがちな鳥が気になって仕方がない。からすに願いを込めているのは私の方なのだ。


うつろ

虚しい。これもまた捉えがたい感覚のひとつである。そういうものの周りに詩があることが多い。


くれないのうめ

この作品は、私の心象をそのまま写実的に表現している。こういう瞬間が訪れるのをいつも待っているのだが、この日は朝から「なにか来る!」という予感があった。写真は、あとで探しに行って撮影したもの。


二〇一五年三月二十一日展示

 

今日、昼間の地下鉄車内で書いた作品である。

「がまのむれ」ということばは三好達治の作品からがまのむれのように私のところへやってきた。

暇つぶしのことば遊びだったこの作品がその数時間後に想像もしなかった重みを持つ点を打つことになる。

 

「がま」ののち、夕方にかけて書いた作品である。

今日、私は「アートフェア東京」を見た。そこで素晴らしい作品に会い、魅入られ、それを生み出した素敵な作家と少しだけお話しすることができた。がんばってお出掛けをしてよかった。

午後になり、血液中のニコチンとカフェインも胃袋の中身も空っぽになり、私はいったん外へと退き、牛タン定食を食べ、コーヒーショップへ隠れた。興奮が冷めないままノートを取り出し、「はしびろこう」と「女」の文字を何度か書き付け、それを眺めていたらこの作品になった。その後何度か推敲を重ね、完成した。

「がま」は、予兆だったのだ。

「はしびろこう」は、必然だったのだ。

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